洲之内徹さんを知っていますか
洲之内 徹(すのうち とおる、1913年1月17日 - 1987年10月28日)は愛媛県松山出身(同郷!)の美術エッセイスト、小説家、画廊主・画商です。美術エッセイ「気まぐれ美術館」の筆者として名高い、とありますが、知る人は少ないでしょう。 仲田は昔は良く色々な本を読んでいましたが、洲之内さんの文章を読むと「文章ってこう言うもんだよな」といつも納得してしまいます。
以下、彼の美術エッセイから抜き出した文章。”絵”を”音楽”やその他いろいろな事に
置き換える事が出来る、そんな不変の言葉です。
◯しかし、一枚の絵を芯から欲しいと思う以上に、その絵についての完全な批評があるだろうか
◯絵は絵だというのが、いうならば私の絵画論の全部である。絵が自分で語りかけてくるもの以外は、ほんとうは、私はあまり信用しない。
◯その「ポワソニエール」は一枚の、紙に印刷された複製でしかなかったが、それでも、こういう絵をひとりの人間の生きた手が創り出したのだと思うと、不思議に力が湧いてくる。人間の眼、人間の手というものは、やはり素晴らしいものだと思わずにはいられない。他のことは何でも疑ってみることができるが、美しいものが美しいという事実だけは疑いようがない。
↑海老原喜之助「ポアソニエール」(1935年、宮城県美術館蔵)
◯絵のよしあしを見分けるには、いっそ、眼よりも鼻を使うほうがまちがいない。
◯あるとき、兄の中也(中原中也)と歩いていると、兄が彼に向かって「ああいう風景を見ても、すぐスケッチしたり、言葉にしようと思うな。だまって感じていればいいんだ。その感じる力を養えばいいんだ」と言ったというのである。
◯どんな絵がいい絵かと訊かれて、一言で答えなければならないとしたら、私はこう答える。ーー買えなければ盗んでも自分のものにしたくなるような絵なら、まちがいなくいい絵である。
◯画家の吉井忠氏が、「靉光ってのはちがうんだなあ、要するに、あいつは絵の虫みたいな奴だったんだ、それだけだ」という意味のことを言っている。それを読んで、それでこそと私は思った。
↑靉光 「鳥」(1940年、宮城県美術館蔵)
◯絵かきというものは二十代で自分のピークに達してしまい、あとはヴァリエーションがあるだけだ、と言われた鳥海さん(鳥海青児)の言葉は忘れられない。私はその言葉にそのときどきで若干の尾鰭をつけて自分の言葉のように言い、人を感心させることがあるが、実はこのときの鳥海さんの受け売りなのである。
↑鳥海青児「うずら(鳥)」(1929年、宮城県美術館蔵)
◯展覧会は年を追ってますます盛んになって行くが、どこへ行っても、たいていは「ね、見て、見て、」と言っているような絵ばかり並んでいて、こちらは気持ちがシラけてしまうのである。一枚くらい、こちらにそっぽを向いているような絵があってもいいと思うのにそれがない。~中略~いろいろむつかしく考えることもできるだろうが、いまの絵が概してつまらないのは、要するに、この「ね、見て、見て 、」がいけないのだと思う。
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